四年という月日を悩み続けたサンチェス。
 帝国のスパイとして暗躍する一方で、解放軍のために尽力していた。今こうして反乱を企てる烏合の衆が一つの軍隊として成り立っているのは、少なからずサ ンチェスの努力があったからだ。
 解放軍の誰もが、彼を仲間だと思っていた。軍にスパイが紛れ込んでいると問題になった時も、彼がそうだとは考えも及ばなかった。皆サンチェスを信頼して いた。
 そしてサンチェスも解放軍が好きだった。解放軍の皆が好きだった。皇帝に忠誠を誓い、帝国のためにスパイになったというのに。
 彼は自問自答を繰り返し、葛藤した。セイカイを暗殺しようとして踏み止まり、伝書鳩を前にして、内通書を握り締めたまま立ち尽くし。解放軍の生き生きと した姿やまっすぐな眼差しと、長年仕えたバルバロッサ皇帝の雄姿を天秤にかけ、考え続けた。
     しかし最終的に、ミイラ盗りはミ イラにならなかった。
 火に油を注ぐが如く、彼は唐突に行動に出て。
 マッシュを刺すことで皇帝への忠義を貫いた。
 それでも、彼がそれ以上のことをせずに心の葛藤に終止符を打ったのは、やはり彼の解放軍への思いの表れと言えるだろう。
 サシャラザードの炎は激しく燃え上がり、やがて沈静化していった。まるで彼の心のように。そして再び水をたたえる。





 マッシュの身を案じるように、本拠地は沈痛な空気に包まれていた。
「なんだお前。こんな所で何やってんだ?」
 ビクトールが酒瓶片手に階段を昇っていると、踊り場の窓から星一つ見えない夜空を見上げているフリックを見つけた。
 サシャラザード以降しばらくフリックを支配していた激しい怒りは、今はもう影をひそめていた。
「ああ……」
 フリックは気のない返事をする。ビクトールを一瞥すらしない。
 ビクトールは苦笑いを浮かべた。きっとサンチェスかオデッサのことを考えているに違いないと思った……が、口には出さなかった。せっかく落ち着 いた怒りに、再び火が点いては困る。
「……ビクトール」
「あ?」
「サンチェスのこと、どう思う?」
「……へ?」
 ビクトールは間の抜けた声を上げた。まさかフリックの方からその話を振ってくるとは思わなかった。
「どう……って、言われてもな」
 確かにあの場では、なんてことを、と思ったが、それよりもマッシュの容態やフリックの爆発の方に意識が向いて、あまり深く考えていなかった。
 ……違うな。ビクトールも空に目を向けた。
 たぶん実感が湧いてこないんだ。サンチェスが仲間であることを当たり前と思っていたから。オデッサが生きていた時からの長い付き合いなのだ。今更スパイ だと知らされても、なんというか……笑い飛ばしてしまいそうな、さらっと流してしまいそうな、そんな気分だ。
 いろいろ難関もあったが、そうして解放軍が勝利を収めてきているせいもあるのだろう。
「お前が俺の分まで怒っちまったからなぁ」
「あー、そうか……スマン……」
「ここ笑うとこ。っつーか、ツッこめ」
「あー、そうか……」
「……」
 こいつ、話振っておきながら、真面目に人の話を聞く気あんのかよ……ビクトールは呆れてため息をついた。
「俺……あの時は本当に頭にきてたんだ。殺したいくらい憎いと思った。オデッサが死んだのは奴のせいだと、心底信じた。だけど」
 フリックは困惑した顔をビクトールに向けた。
「それが全て何処かに行っちまった。冷静に考えると、どうしてもアイツを憎みきれなくて……正直戸惑う」
「そいつはたぶん……サンチェスが解放軍のために、オデッサがいた時から俺達のために、どれほど貢献してくれたか知ってるからさ」
 フリックは再び空を見上げた。
「……サシャラザードへの出撃前夜に出してもらったワインは、むちゃくちゃウマかった」
「お前のこと、好きだって」
 ビクトールがそう言うと、フリックは顔をしかめた。
「なんで……仲間になってくれなかったんだ……」
 今フリックの心の中で渦巻くのは、哀しさ。やり切れぬ思い。
 ビクトールは目を閉じてサンチェスの姿を思い浮かべた。
「仲間さ……ただ、いろいろ抱えてただけだ。解放軍に参加する、一部の奴等みたいに」
 操られていた者。ただ有利な方に付いただけの者。金目当ての者。敗軍の将、等。例えば。
 ビクトールはフリックの肩を叩いた。
「複雑な気分で落ち着かねぇなら、今はしまっとけ。感情も、サンチェスの存在も。戦いが終わって余裕が出てきたら、また向き合うかどう考えりゃいい」
 フリックは思案するように目を閉じた。
「……オデッサは、どう思うんだろうか……」
 信頼していた男がスパイだと知ったら。彼女はもうこの世にはいないから、答は知る由もないが。
「セイカイはサンチェスの葛藤を理解してやったみたいだぜ。奴がもう何もする気ないみたいだから、特に目の仇にする必要もないと考えてるみたいだ」
「そうか……ま、そりゃそうだろうな。身近な人間が帝国側にいたんだし」
「オデッサは……そうだな。“これまで”より“これから”が重要だと考えるんじゃないか?」
「これから……」
 サンチェスが、これからはどうしたいのか。
 実際のサンチェスは解放軍に身を置き、傍観者となって結末を見届けるだけ。マッシュの傷に対して懸念は残るものの、後はもう帝都侵攻のみを残す解放軍に おいて、解放軍のサンチェスとしてやることは、もうあまりない。ただスパイの正体を知らぬ者達を刺激せぬように、普段通り振舞っていればいいだけだ。もち ろんスパイとしての役目はマッシュを刺したことで全うしたことしにしたので、もはや解放軍を引っかき回す理由もない。
「そういや、ハンフリーはどう考えてんだろうな?」
 ビクトールは寡黙な大男を思い出した。ハンフリーは無口だし、感情を顔に出すこともない。サシャラザードのあの場にあってさえ、眉間のシワを少し深くし てサンチェスの名を呼んだだけだ。
 自分達より遥かに中身のできたハンフリーが、心の内に赤い感情を抱えているとは思えないが。
「ハンフリーがサンチェスと話をしているのを見かけた。内容は聞こえなかったが……微笑んでた。淡くだけど」
「そうか」
 ハンフリーが微笑んでいた。それが分かれば充分だ。
「だから悩んじまったんだよ。尚更」
 そうフリックは付け足した。
「オデッサが死んだのはアイツのせいなのに。たぶん、グレミオが死んだのだって、ソニエール監獄に侵入したのをアイツが知らせたからに決まってる。サン チェスのせいで出た犠牲を考えたらキリがないが……それなのに、サンチェスは未だに解放軍のメンバーなんだ。皆の目がそう言ってる。俺だっ て……」
 フリックは言葉を詰まらせた。続きを口にするのは解放軍への、そして何よりオデッサへの裏切り行為に思えてためらわれた。
「落ち着けフリック。だからそれは後で考えろ」
「でもアイツはここにいる! 俺の意思に関わらず俺の視界に入る。あっちも気を遣ってはいるみたいだけど……」
 ビクトールはため息をついた。こりゃダメだ。フリックは完全に思考のループにはまっている。どうしたもんかな……
「……サンチェスと一度話をしてみたらどうだ?」
 少し考えた末、ビクトールはそう提案してみた。人の言葉を受け入れず、一人でぐるぐると考えているよりは某かの答は出るかもしれない。
「……そうするのが手っ取り早いのか……やっぱり」
 フリックもそれは考えていた。しかし煮え切らない。
「感情に任せて怒鳴ってしまいそうだ。冷静さを失わずにいる自信がない」
「青いからなぁ」
「うるさい。悪かったな青くてっ。俺はどうせ未熟者だ」
「サンチェスにも言われたしな」
「お前は……っ! あー、もう! お前に相談した俺が馬鹿だった!!」
「もっともだな」
 突然今までだんまりだった星辰剣が同意する。
「お前は黙ってろ」
 ビクトールが一喝すると、星辰剣は「ふんっ」と鼻で笑い、沈黙した。
「はぁー……」
 フリックは深々とため息をついた。なんだか悶々と考えていたのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
「もういい。寝る」
「もうか? 早くないかぁ?」
 ビクトールが呆れて言う。
「うるさいな。そんなの俺の勝手だろ。疲れてんだよ」
「普段使わないモンを使ったからだろ」
「あまり使わない……?」
 思い当たらなくてフリックは眉をひそめる。ビクトールはにやにやしながら自分のこめかみをつついた。
「……………………お前はぁ         っ!!」
 フリックは思い切り口から怒りを吐き出した。ビクトールは笑いながら階段を駆け上がる。
 恨みがましい目でビクトールを見上げていると、階上の男はくるりと振り返り、彼を見下ろした。
「フリック」
「……なんだよ」
「お前は素直が一番だと思うぜ」
「お前、いい加減に」
「馬鹿にしてねぇよ。真面目な話だ」
「っ……」
 ビクトールが真摯な眼差しを向けているのに気付いて、フリックは口をつぐんだ。単純と言われているようで、どうも素直が長所とは思えず複雑な気分だった が、自分を思ってくれての言葉なのだと考えることにした。この男に諭されるのも複雑な気分だったが、今回は“素直に”受け取ることにした。
 ビクトールはにっと笑った。
「フリック、暇ならちょっと付き合えよ」
 そう言って手に持つ酒瓶を持ち上げて見せる。フリックが考えるのをやめたと見たのだ。
 フリックは肩をすくめた。
「……そうだな。寝る前に少し引っかけとくか」
「そう来なきゃな」
 ビクトールはフリックが階段を上がってくるのを待ち、そろって部屋へと歩き出した。





『自分に聞いてみるといい』

 実はビクトールの前に、ハンフリーにも話していた。すると彼はそれだけを言うと立ち去ってしまった。
 その時は一人で考えて分からないから相談したのにと思ったが……
 そういう意味だったのか。本当に口数の少ない奴。っつーか、少な過ぎ。
 他のことは考えず、ただ自分が、どう思うのか。それが大事だと、ハンフリーもビクトールも言っているのだ。
 俺が、俺自身が、サンチェスに対して思うのは……静かに、淡々と、自問自答する。そして帝都に向かう直前か、勝利を収めたその後で、答をサン チェスに伝えてみようとフリックは思った。
 それが自分の、仲間だと信じて疑わなかった男への、けじめとなることを願って。



END

 以前作った初期解放軍コピー本『志』より、サンチェスの話 をと思って書いた物。
 でも最初全然のらなくて四苦八苦した覚えが……
 サンチェスメインなのに、出てくるのはフリックとビクトールだけ。
 悩んだ末に結局こういう形に収まりました。
 これはこれでいいんですが、いずれはちゃんとサンチェスを登場させて、メインに据えて書きたいなと思います。