剣と人

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『剣は、銘などなくとも斬れれば良い』
                ――ルカ=ブライト
















 よく見るとその刀身には、うっすらとだが、確かに刻印がなされていた。
 円形の、幾何学模様。まるで押印のように、刃の根元に付いている。
 ただの抜き身では気付かないが、鍛え直した時だけ、僅かな時間それが光るのだ。マースはそれで気が付いた。
 ――しかし、と思う。
「この剣の名前って、“マサムネ”だったはずだけど……この印は」
 鍛冶師マサムネの印ではない。
 それに。
「……今の音、不吉だなあ……」
 水に入れた途端、刀身から“パキンッ”という音がした。それはまるで薄氷を割ったような、それでいて物質的な音ではなく。
 さてどうしようかとため息をついた直後、鍛冶部屋からいなくなっていたミースが戻ってきた。
「おう、マース。ハンフリーの旦那の剣は終わったか? ……どうかしたか?」
 しかめ面をしているマースにミースは首をかしげた。舎弟の視線を追って手元を覗き込む。――そして息を呑んだ。
「おやおや、これは。ムラサメの魔封じの印じゃねぇか」
 ムラサメとはマサムネと同じく鍛冶師の名である。
「剣の銘でも、鍛冶師の名前でもなく、魔封じの印が施してあるってことは、だ」
「かなりの曰く付き……」
 兄弟子の言葉をマースは継いだ。かすれた声で。
 マースは不安で曇った顔をミースに向けた。
「今、水に入れたらパキンッって音がしたんですよ。何かが壊れるような」
「……この剣の名前ってマサムネって言ったっけか」
「はい」
 って言うことは、とミースは腕を組んで考え込む。
「魔封じの印が重ね掛けしてあったかもしれないな」
「やっぱり……」
「とりあえず持ち主に話を聞いてみようじゃないか」
「あ、じゃあ、とりあえず終わらせますね」
 ミースは、マースが鍛え直しの全工程が終わるのを待ち、部屋の外に顔を出して待っていた大男を招き入れた。
 のっそりと鍛冶部屋に踏み入ったハンフリーはマースに目を向け、彼の手にある愛刀を見下ろす。そしてミースに視線を向けた。
「ちょっと聞きたいことがあるんだ」
 そう言われたので、ハンフリーはまっすぐミースを見ながら言葉を待った。
「この大刀、何処でどうして手に入れたんだ?」
「……家の倉庫にあったものだ。軍に入隊した時に譲り受けた」
「何っ」
 ハンフリーの返答にミースは目を丸くした。
「入隊した時だぁ? アンタ、何歳で入隊したんだ?」
 入隊の基本は16歳である。まさか……
「16」
「ってことは何か、16ン時にはこの大刀振り回してたのかよ!?」
「……」
 特にハンフリーは答えなかったが、わざわざ肯定するまでもなく、その通りだった。
 うへーっとミースは感心したような呆れたような声を出す。
「というか、話が逸れてますが」
「あ、そうだ」
 マースにつっこまれてミースははたと気が付いた。
「で、旦那よ。この刀身にはなんかの印が付いていたかい?」
 言いながらミースは大刀を親指で指し示した。マースがムラサメの印がある部分を指差す。
 ハンフリーは微かにうなずいた。
「お、気付いてたのか。んじゃぁ、その印ってこんなんだったか?」
 ミースはマースから大刀を取り上げてハンフリーに印を見せる。
 ハンフリーの眉間のシワがわずかに深くなった。
「……いや」
「はー、やっぱりな」
 ミースはマースと顔を見合わせ、肩をすくめた。
「たぶん、アンタが見た印がマサムネの印だからってことで、銘をマサムネにしてたんだと思うが……実はな」
 重く感じるようになった大刀をハンフリーに返しながらミースは説明した。
「この印、鍛冶師の名前を示すんじゃねぇんだわ。確かに印の形そのものは鍛冶師によって違うんだが……」
「本来の目的は魔封じなんです」
 ミースの言葉をマースが継ぐ。ハンフリーはわずかに首を傾げた。
「忌まわしい魔力や呪いを封じるためのもの、と言えば分かりやすいでしょうか」
「武器っつーのはさ、威力増幅とか属性や特殊攻撃付与のために紋章を宿すだろ? それが何かの要因で普通の封印ではどうしようもできないほどタチの悪いモンに変わっちまった時とか……それから曰く付きの禍々しいモンになっちまった時とかに、魔力に恵まれた鍛冶師が施すことがあるんだ。それが魔封じの印――で、今アンタの大刀に付いてるのが、鍛冶師ムラサメの魔封じの印なワケ」
「そして前に貴方が見たのが、鍛冶師マサムネの印なんだと思います」
 ハンフリーは刀身を見下ろした。見覚えのない印が微かに見える。
「で、実は鍛え直して水に入れた途端、パキンッて音がしたんです。多分、その大刀には魔封じが少なくとも二重かけられていたようで、その内の一つが解けてしまったみたいなんです」
 ハンフリーはマースに目を向けた。
「つまり、だ。アンタのその立派な大刀は、曰く付きかもしれねぇってことよ。分かったか?」
「……ああ……」
 答えながらハンフリーは大刀を鞘に戻した。
「気を付けた方がいいと思います。何か少しでも異変があったら使用を止めて、すぐに知らせて下さい」
 マースがハンフリーをまっすぐ見上げて告げた。
「まぁ、長年の相棒を簡単に手離せとは言わねぇがよ。覚悟しておいた方がいいぜ。じゃないと後で大変なことになるからな」
 ハンフリーは厳めしい顔でうなずき、話は終わったと思ってきびすを返した。
「おっと、言い忘れてた」
 ミースの声に顔だけで振り返る。
「その大刀、これからはマサムネじゃなくて、ムラサメ……だな」
 本当の製作者は不明だが――






 その晩、ハンフリーは夢を見た。

 愛剣を見下ろしている。
 その刀身には、無数の亡者の顔が浮かび上がっていた。
 ハンフリーはそれをなんの感慨もなく見下ろしているのだ。夢の中の自分は、その異様な光景を当たり前と受け止めているらしい。
 幅広の刀身の中で、叫び蠢く亡者共。
 彼等が一斉にハンフリーに目を剥いた……所で目が覚めた。

「……」
 現実に戻ってきても、映像が脳裏にこびり付いている。
 深く、息を吐いた。上体を起こし、ベッドに立てかけていた大刀を手に取る。
 僅かに鞘から抜くと、刀身に亡者達がいた。

「!」
 目を覚ましたハンフリーは今見た夢に戸惑い、しばらく硬直していた。
 二重の夢だ。いや、今は現実なのか? 細い叫び声が鼓膜に残っている。伺うように大刀に目を向けた。
 上体を起こし、大刀を手に取って、引き抜く。
 刀身に亡者達がいた。

 ――錯覚だ。ハンフリーは深く息を吐いた。質の悪い夢を見たと思った。
 例の魔封じの印が消えたせいだろうか。それとも“いつもの”悪夢なのか。

 刀身に無数の亡者達。質の悪い皮肉だと、ハンフリーはため息をついた。





 夜間の立哨に従事している兵士達を見回った後、ハンフリーは人気のない港に出た。片隅に置かれている木箱に腰を下ろし、手で顔を覆って深く息をつく。
 ……少し、まいっているとハンフリーは思った。もはや見飽きた悪い夢に、それでも精神が蝕まれているようだ。
 ハンフリーは元々あまり夢を見ない。見ているのかもしれないが、その認識は全くなく、当然記憶にも残っていない。そんな中、突然降って湧いたようにぽつりぽつりと悪夢を見ていた――かつては。それが、大刀の一件があってからはほぼ連日見るようになっている。全てが全て質の悪い悪夢というわけではないものの、夢の中ですら活動しているために、休んだ気になれないのが堪えているのだろう。
 「厄介なモノに取り憑かれたもんだ」と、先日ルックに言われていた。「まぁ、せいぜい喰われないように気を付けるんだね」大刀を一瞥して少年は言う。カレッカを全く無関係とは思っていないが、しかし大刀が原因であるのは明白だった。
 だが、かと言って――
「おや」
 人の気配、女性の声。目を向けるとジーンがいた。
「最近やけに空気がざわめいていると思ったら、旦那だったんだね」
 今のハンフリーにとって意味深なことを言って、前に立つ。
「……貴女の気に障ったのなら、申し訳ない」
「いや、私は別に気にしてはいないよ」
 妖艶な微笑みをたたえてジーンは言う。座っているハンフリーと目線を合わせるように身を屈ませた彼女は、長く綺麗な指先でハンフリーの顔を上向かせ、興味深げに目を覗き込んだ。
 露出の多い美女の衣装。形の良い豊満な胸と谷間が強調されている。だがハンフリーの意識はそちらに向くことはない。常に艶めいた意味深な言動が目立つ紋章師に悩殺される男は多いが、ハンフリーはジーンの色香が何処にも向けられていないことに気付いていた。
 それよりも気になるのは、常人とは全く違う、ただならぬ気配。元々謎の多い女性ではあるが、それにしたって異様な雰囲気を感じる。ハンフリーの獣じみた本能的な直感がそう訴えていた。だが今のところジーンに害意はないようなので、意識しないようにしている。
「厄介なものを抱えているね」
 ルックと同じことを言う。視線が大刀に落ちた。追うように、ハンフリーも己の得物に目を向ける。ジーンに顔を上向かせられているので、実際には視界に入らないが、意識は完全に大刀を捕えた。
「どうにかしてあげられないことはないけど……斬れ味は落ちるわねぇ」
 とジーン。再び視線を感じたので目を向けると、美女は「どうする?」と目で問いかけていた。
 見つめ合いながらしばし考え、「必要ない」とハンフリーは答えた。戦争中に鈍ら刀を振るうのは抵抗があったし、かと言って長年愛用してきた大刀を手離したくないという思いもある。だからできる限りぎりぎりまで抗ってみようと思ったのだ。
 その思いに勘付いていたのか、「だろうね」とジーンは笑った。
「長年連れ添ってきた相棒だものねぇ」
 ハンフリーの顔から離れた指が、大刀に柄に触れる。ジーンは愛しそうに撫ぜた。
「剣の価値を、見誤っては駄目だよ。気をしっかり持って、頑張りな」
「……心遣い、感謝する」
「どういたしまして」
 ジーンはにこりと微笑んだ。友好的でありながら、決して中を悟らせぬ笑顔。だが、悪くない。
「あっ、ジーンさん!」
 突然港に響いた浮かれた声に二人が目を向けると、嬉しそうに笑うシーナがいた。その隣りにセイカイがいて、ハンフリーの存在に気付いて「あ」と声を上げる。ジーンとハンフリー、珍しい組み合わせだと思ったのだ。
「んん? あっ、ハンフリー、てめぇ、ジーンさんに何してやがる!」
 ハンフリーとジーンの距離の近さに、シーナが抗議する。
「……」
 特に何もしてはいない。どちらかというとされている方だ。しかもいやらしいことではなく、ただのアドバイス。だがシーナからすれば、自分以外の人間がジーンの側にいるのが許せないだけなのだろう。相手が普段女性ととほんど縁のない男なので尚更気になったようだ。
 シーナを見るジーンの唇が笑みをかたどった。少した悪戯めいた笑みだ。ハンフリーは立ち上がり、さっとジーンの腰をさらう。
「きゃっ」
 そのままジーンを木箱に座らせて体を押さえ付け、顔を寄せた。
「!」
「ぎゃーっ!!」
 シーナから絶望的な叫びが上がる。
 しばしの沈黙。ジーンの腕がハンフリーの首に回る。
「……失礼」
 やがてハンフリーが囁いた。
「いいえ、素敵」
 ジーンが妖艶に微笑む。
「てっ、てめっ、ハンフリー離れろぉっ!!」
「お、落ち着きなよシーナ」
 ハンフリーに突撃をかましそうになったシーナをセイカイが羽交い絞めにして抑える。ハンフリーはジーンの頬をすいと一撫でし、暴れるシーナに目を向けずにその場を後にした。
「く、くそ、放せセイカイ! 一太刀浴びせなきゃ気が済まん!!」
「そ、それはマズイって。大事な仲間なんだから」
「あんな奴、仲間じゃねぇ!」
 困り果て、セイカイはジーンに目を向けた。
「本当にしたの?」
「ふふっ、まさか。そんな男じゃないでしょう? 大人の冗談よ」
「へ?」
 シーナが驚いてジーンを見る。謎の美女はおかしそうに笑った。
 実のところ、ハンフリーは顔を寄せて唇の前に人差し指を立てただけだ。そうしてジーンに沈黙してもらえば、ハンフリーの大きな体に遮られて後ろからはキスしているように見える。更にジーンがその冗談に乗って腕を回して見せたので、シーナはまんまと騙されてしまったというわけだ。一方セイカイは、まさかハンフリーがそんなことをするはずがないと思いつつも、傍から見るとどうしてもキスしているようにしか見えなかったので、ジーンに尋ねてみたのである。
「そういう冗談の一つや二つできなければ男とは言えないし、人の上にも立てないよ。お酒が飲めるだけでは大人になれないのよ、坊や」
 シーナに顔を寄せてジーンが言う。シーナとセイカイからは酒の臭いがしていた。
「俺は酒が飲めるだけの男じゃいぜ、ジーンさん!」
 自信たっぷりにシーナが答える。
「ふふっ、私もそう思うけど……そう思っていない人もいるみたいだね」
「え?」
 ジーンが何処かへ視線を向けたので、つられるようにしてシーナも目を向けた。
「……げっ」
 鬼の形相でレパントが駆けてくる。声は聞こえなかったが、唇が「この馬鹿息子め」と呟いていた。
 シーナは脱兎の如く逃げ出し、容赦なくレパントがそれを追っていった。
「……ところでジーンさん」
 残されたセイカイがジーンを呼ぶ。
「何かしら?」
 相変わらずの微笑みでジーンは応じた。
「ハンフリーから妙な気配がするんだけど、気付いてた?」
「ふふっ、さすがはソウルイーターに選ばれた坊やね」
「なんだか分かる?」
 ジーンはうなずいた。
「大刀に良くないものが憑いているのよ」
「良くないもの」
 セイカイの顔が不安に曇った。
「大丈夫なの?」
「それは、本人次第ねぇ」
「本人次第?」
「そう。アレと上手く折り合いを付けることができれば、解決するわよ」
「折り合いを付けることができるのものなの?」
「ええ。逆に言えば、そうしない限り何も解決しない。旦那は抗うつもりでいるようだから、やりたいようにさせてあげるといいよ」
「そう……ならいいんだけど」
 何か力になれないかと、セイカイは思う。
「……貴方は、まっすぐ前を向いて進めばいいと思うわよ」
「えっ?」
「解放軍の頂点に立つ貴方が迷わなければ、下の者は迷うことなく付いていくよ」
 見透かされていた。セイカイの思いに対する、ジーンの返答だった。
「……うん」



 ――現実は、こんなにも平和なのだ。
 戦時中に不謹慎な発言だと思うが、それでもハンフリーはそう思わずにはいられない。
 同朋と酒を酌み交わしていたらしいセイカイ。ジーンと自分の冗談に本気で動揺するシーナ。不肖の息子を思う父親の姿。
 夜毎見る夢のように破綻しておらず、理不尽でもなく、残酷でもなく。
 現実は、平和だった。
 自分の立つ位置が、意識が、現実ではなく夢の中に移りつつあるのかもしれない。現実は、改めて思い直さなければ、まるで壁の向こうの世界のように、遠く感じる。

『せいぜい喰われないように気を付けるんだね』
『剣の価値を、見誤っては駄目だよ。気をしっかり持って、頑張りな』

 気を付けねばならぬ、とハンフリーは思った。ルックとジーンに心から感謝した。





 ――パキン、と薄氷を割ったような、それでいて物質的ではない音が、鍛冶部屋に響く。
 大刀の根元に浮かび上がっていたのは、鍛冶師ムラマサの銘だった。
 魔封じの印ではない。銘である。





 己が、立っていた。
 ハンフリーの前に、大刀を携えて。
 そして、対峙する自分も同じように大刀を手にしている。
 両者には闘うことが当たり前という認識だけがあった。
 互いに構える。
 どちらともなく刃をふりかざす。斬り込む。
 受け流し、弾く。
 互角。
 そう思ったが。
 大刀を弾き上げられ。
 目前に迫る刃。
 振り下ろされ。



 目を覚ました。
 ――愕然とした。よりにもよって、自分に負けたのだった。
 これでも大刀一本で幾多もの戦いを乗り越えてきた身である。慢心するつもりはないが、それでも嫌悪と共にそれなりの自信と誇りはあったのだ。
 しかし結果はこの通り。自分でも驚くほどに動揺を呼び込んでいる。
 途中までは互角だった。それはそうだ、相手は自分なのである。しかし途中からおかしくなり始めた。そして、決定的な一閃を喰らう。
 何が悪かったのだろうと考える。夢の中とはいえ、自分の動きは夢特有の理不尽な制限を受けてはいなかった。
 そこで、気付いた。
 額からこめかみにかけて、まるで液体でも流れているような違和感があるのだ。手でその筋を撫でると、やはり濡れていた。闇の中では色が判別できないので匂いを嗅ぎ……ハンフリーははっとして上体を起こした。途端に額からぱたり、ぱたり、と掛け布団に雫が落ちる。
 額がぱっくり裂けていた。そこから血が流れ出ていた。それを認識したところで初めて痛みを覚える。
 まるで斬られたような傷だった。
 まさか。そう思ったが、とにかくこの傷をどうにかするのが先だと、布で額を押さえて部屋を出た。
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