人として成功した男の余裕

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 電話口に艶っぽい声で『復帰おめでとう』とその女は言った。
『お祝いも兼ねて、今夜どうかしら?』
 かつて付き合っていた女だ。クリーツは嘲笑うように口元を歪めた。何よりも、自嘲が強かった。
「ありがとう。だがもう君とは会わない」
 相手の返答を待たずに通話を切る。ため息をつき、携帯電話を執務室のソファに放り投げた。
 これで何人目だろう。再任会見の後から、似たような内容の電話をいろいろな女からもらった。
 全て、以前遊びで付き合っていた女達だ。彼女達がクリーツの何を求めてこのように連絡を寄越すのか、クリーツ自身が一番よく分かっていた。
 曰く、金と地位。クリーツも自らそういう女を選んでいた。その方が分かりやすく、扱いやすかったのだ。女達もクリーツの金と地位が目当てである自覚があるらしく、クリーツがダークを辞めた後はあっさりと離れていった。
 もう、同じ遊びをするつもりはなかった。価値を見出せなくなったのだ。元々付き合ってきた女達に魅力を感じていたわけではない。ただ己の優越感を満たすための手段の一つにすぎなかったのである。他に傾倒するものができれば、切り捨てられるのは道理であった。
 かつての金も地位も取り戻しはした。しかし自分が再び在籍するのは以前のダークではない。それ相応の働きを示さねばならぬ。そしてクリーツにはその意欲があった。だから、もはやかつての愛人達に用はない。優越感などという偽りの幸福も、今のクリーツには不要のものだ。



 友人との待ち合わせの時間まではまだ余裕があったので、通りすがりのコンビニでスポーツ新聞を買い、最寄のコーヒースタンドに足を運んだ。
 “本日のコーヒー”を物も確認せずに注文し、喫煙コーナーの一番端のテーブルに腰を落ち着ける。煙草に火を点け、一息紫煙をくゆらせて新聞を広げた。財団ビルに行けばタダで読める新聞だ。だが今日はまだ目を通してなかったし、雑誌コーナーを見ても特に気になる物がなかったので、結局新聞を買ったのだった。
 しばし小さな文字の応酬に目を通していると、新聞の向こう側にあるテーブルに女が二人座ったようだった。
「そういえば、以前クリーツに電話したら断られたって言ったじゃない」
「……」
 なんとなく聞き覚えのある声だった。間違いなく、昔付き合っていた女だ。
「うん」
 相槌を打つ方は知らない。まぁ、女の友人か。
 女はまさか新聞の陰にクリーツがいるとは思いもしないのだろう、周りに配慮することもなく話を続ける。
「で、この前さ、クリーツが軽なんかに乗ってるの見かけたのよ!」
「げ! 軽!?」
「そう! いやー、断られて良かったと思ったわ。あんなのの助手席に乗せられると思うと、もー、キモくてキモくて」
「いや、ちょ、あのクリーツが、軽!?」
「ね? 笑っちゃうでしょ? でもダークをクビになった後は極貧生活だったんだろうから、仕方ないといえば仕方ないのかもしれないけど」
 きゃははと女は笑う。
「ま、お似合いかな? だいたい大した能力もないくせにプリンスの監督やってた男だもの。ダークもとんだお情けをかけちゃったものね。また監督に起用するなんて、この先のプリンスも高が知れるわ」
「そんなことないわよ!!」
「!」
 クリーツは驚いて文字から目を離した。
 この声は。
「クリーツさんはすっごい優秀な監督なんだから! じゃなかったらあのギロチオーナーだって再起用するわけないもの!」
「え、何いきなり、誰?」
「……シルバーキャッスルの、オーナー……!?」
 そう、この声はシルバーキャッスルのオーナー・ルリー=銀城のものだ。
「だいたい軽を馬鹿にするなんて、何よ! クリーツさんの乗ってる車は今すっごい人気あるんだからね!」
 クリーツは新聞の端からそっと辺りの様子を窺った。ルリーと女二人は互いのことに集中しており、彼には全く気付いていない。ルリーには客の誰もが注目していた。一部、様ぁ見ろと言わんばかりの笑みを浮かべているのはどういうことか。レジカウンターの店員はルリーが注文したらしいカップを手に、困惑した顔をクリーツに向けていた。この状況をどうにかしてほしいということらしい。
 小さく紫煙を吐き出したクリーツは、煙草の火を灰皿で擦り消し、新聞を畳んで席を立った。
「見てなさいよ! ダークプリンスは今まで見たこともないような素晴らしい活躍をするんだから! バ」
 そこで背後からルリーの口を手で塞ぐ。女達が目を見開いてクリーツを見上げた。彼の存在に今初めて気付いたという顔だった。
 そしてやはりそれはルリーも同じのようで、口を塞がれたまま、目で驚きを訴えていた。
「店員を待たせては可愛そうですよ」
「え」
 ルリーが我に返ってレジカウンターを見ると、店員が手に持つカップを軽く持ち上げて見せる。
 クリーツは、「わぁ、ごめんなさい!」と慌ててカウンターに駆け寄るルリーを苦笑いでもって見送り、席に戻ってコーヒーカップと新聞と灰皿を手にした。そして灰皿を店員に渡し、カップを手にしたルリーの背を押して禁煙コーナーへと促す。
 一瞬だけ、かつての愛人に会釈感覚で微笑んだ。他意はなかった。女は顔を赤くさて目を見開いたが、既にクリーツの目線は逸れていた。
 カウンターテーブルに着いたルリーから椅子二つ分空けて同じく座る。何事もなかったように新聞を広げると、ルリーが隣りに移ってきた。
「バカヤローはいけませんよ」
 少し悪戯めいた顔でクリーツは言う。ルリーは照れ笑いで誤魔化した。
「まさかクリーツさんがいたなんて、びっくりしました」
「私も貴方が現れるとは思いませんでした。ありがとうございます」
「え?」
「私を庇ってくれました」
「あ、あれは、その」
 途端にルリーは頬を赤くさせて顔を伏せる。
「だって、あんまり勝手なこと言うから……クリーツさんはなんとも思わなかったんですか?」
 少し非難めいた声音で、もっともな質問をされた。クリーツは口の端を上げた。
「言いたい者には言わせておけばいいんですよ。そんなことで私の真価は下がらない」
 だから女達の話は全く気にならなかった。自分に誇りがあれば、あの程度の誹謗などなんの意味もなさない。
「おー、カッコイイ〜」
「そうですか? 先ほどの貴方も勇ましくてカッコ良かったですよ」
「いや、あの……実はちょっと恥ずかしくなってきました」
 そう言ってルリーは喫煙席を窺い見る。女達はいなくなっていた。
「まぁ、店からすれば一騒動ではあるかな」
「うっ」
 ルリーは、今度は店内を窺い見た。すると何人かが目を合わせ、親指を立て見せたのだった。
「!」
「Good-Job! ってところでしょうか」
「そ、そうなのかな……」
「もちろん。感謝します、Miss銀城」
「……えへへ」
 照れ笑いを見せる少女。
「……」
 なんだか心が洗われるような感じがして、思わずクリーツは笑みを浮かべた。こういう純粋で真っ直ぐな娘は、彼にとって非常に新鮮であった。――待ち合わせ時間が迫ってきていたのが惜しいほどである。
 クリーツはコーヒーを飲み干し、新聞を畳んだ。
「では私は予定があるので、これで」
「あ、はい」
 そう答えるルリーの顔が少し名残惜しそうに見えたのは気のせいか。
「今日のお礼はいずれ」
「いえ、別に気にしないで下さい」
「そうはいきません。待っていて下さい」
「はぁ、じゃぁ」
「えぇ、ではまた」
「はい」
 互いに笑い合い、その場は別れた。
 ふと、こういう関係になれたのだなと、クリーツは思った。以前の二人からは想像もできない。
 一方は非道の限りでスポーツ界を牛耳ってきたダークスポーツ財団の監督。方や、正々堂々を信条とする万年最下位弱小チームのオーナー。この二人が笑い合うとは不思議なものである。
 想像できないといえば、今の自分だってそうだ。昔の自分はまさかこうなるとは思いもしなかった。ダークは絶対不変で、自分の地位も不変。それを信じて疑わなかった。それが――
 しばし、ルリーの笑顔が脳裏にちらついていた。おいおい、新鮮だからって限度があるぞ。相手は何歳だと思ってるんだ。
 だが一方で、そんなことを考える自分が愉快で、クリーツは笑みを浮かべるのだった。



END
男の余裕です(笑)
男は余裕を見せないといけません。
クリーツはそんな余裕を持つ男だと思います。
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