She is the one.

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 ディーラーに勤めている友人から電話がかかってきた。……着信を告げる携帯電話の画面を見てクリーツは首をかしげた。こちとら仕事中だったが、それは向こうとて同じ。何かあったかと少し構えて電話に出た。
 友人は仕事中に悪いなと断りを入れ、
『以前下取りした車を買ってくれたお客さんが、できればお前さんに返したいんだと。買わないか?』
「は?」
 唐突すぎて一瞬思考が停止した。すぐ立ち直る。
「下取りした車って、俺がダークをクビになった時に手放したヤツか?」
 職を失ったクリーツはその後の生活不安を少しでも払拭するために、それまで乗っていた外国メーカーの高級スポーツカーを下取りに出して軽自動車を買っていた。ちなみにお釣が来たので、実際軽には一銭たりとも払っていない。
『そう、それ』
「……どういうことだ、それ?」
『実はな』
 なんでも、クリーツが一目惚れで――半年前に買ったばかりの国内高級スポーツカーを手放してまで――買ったそのスポーツカーはシリアルナンバーが付いた特別仕様の限定車で、すぐに買い手が付いたのだそう。
 ところがその買い手が、クリーツがダークに復帰したことを知り、できればまた乗ってやって欲しいと言ってきたのだという。
 ……個人情報の取り扱いにうるさい昨今において、その客に何故前の持ち主が自分だと知られているのか疑問に思ったが、当時この辺りで乗っているのはクリーツだけだったので、推理するならこれほど簡単なこともないなと考え直し、追及しないことにする。
『元々自分には身に余る車だったし、憧れの車のオーナーに少しでもなれたからもう満足だからって。大事にされてきたのも乗ってみてよく分かるから、他の誰 でもない、クリーツに乗ってもらいたいんだってさ。まぁ、俺も沢山の客を見てきたけど、確かにアレを乗りこなせる奴なんてお前さんくらいしか思いつかねー なぁ』
「そりゃどーも」
『またダークで働いてるんだ。軽の他に趣味用に一台持ってても大丈夫だろ?』
「まぁ、そりゃぁそうだが」
 経済的には軽の他に燃費の悪いスポーツカーを所有しても問題はない。給料は以前より下がったとはいえ、それでも一般からすればやはり破格、更に言えば ダークをクビになった時にもらった口止め料……じゃない、退職金が手付かずで残っている。そして住まいも格安の社員寮で独身ときた。彼女だっていない。そ う、今のところ経済的には全く問題はない。
 ――ない、が。
「悪いが、少し考えさせてくれ」
 クリーツは即答しなかった。
『そうか。分かった』
 やけに低く落ち着いた声に、心情を汲み取ったのか、友人もしつこく食い下がらなかった。
「ふー……」
 切れた電話を机に置き、クリーツは深く息をついた。
「なんとも、複雑な話だな」
 手放した時はあまり未練がなかった。惜しむ気持ちが全くなかったかと言えば嘘になるが、それでも、これまでの自分に別れを告げ、また、これからの新しい生活を考えると、あっさり乗り換えられたのだ。あの車は、己の顕示欲そのものと言っても過言ではなかったから。
 しかし、断れなかった。かつて付き合ってきた女達のように、すっぱりと切り捨てることができなかった。
 結局、その車を選んだのは自分ということか。性根が腐っていた頃の話といえども、やはり他でもない自分が一目惚れし、半年前に買った国内高級スポーツカーを捨ててまで即決したのだ。きっとプレミア感に惹かれただけではなく、車そのものの魅力も感じていたのだろう。
 確かに、いい車だった。運転席に座るだけで至福だった。エンジンをかけ、音と振動に身を委ね、颯爽と走り出せば、世界はがらりと一変する。理想の空間へとクリーツを誘ってくれた。
 本当に、本当にいい車だった。
 だが、買うとも言えない。
 本当に自分はあの車に相応しいのか。自分はあの車の魅力を本当に解っているのか。あの車を手に入れたら、また自分の中で良からぬ何かが再び産まれやしないか――不安は考えれば考えるほど出てくる。自分のせいで、あんな素晴らしい車を貶めたくはない。
 クリーツは机の上を指先で叩きながらしばらく思案した。
「……ちょっと、見てくるか」



 友人に頼み、今の持ち主と店で会わせてもらうことになった。恰幅のいい、しかし品のある初老の紳士だった。会社を経営しているそうだ。なるほど、こんな高額な車を買えるのだ、それくらいの肩書きは付いていて当然だろう。っていうか、俺よりよっぽど似合うんじゃないか?
「お会いできて光栄です、クリーツ監督」
「いいえ。こちらこそ、まさかあの大企業の経営者の方にお会いできるなんて、感激です」
 握手を交わし、早速車を拝見させてもらう。
「……」
 クリーツは言葉を失った。そのボディは新車同様に輝いており、もちろん傷一つない。そして相変わらずの美しいボディライン。そんじょそこらで走っている車とは明らかに一線を画す存在感に一目見ただけで圧倒される。
「エンジンをかけてみましょう」
 そう言って紳士はハンドル脇のボタンを押した。シュイン…という始動音に背筋がぞくりとする。そう、この音だ。恐ろしくも美しく洗練された日本刀の刃が、凍てつく氷を歪みなく一閃したような、繊細なこの始動音!
「……運転席に乗っても?」
「ええ、ぜひ」
 乗ってみれば、椅子や握ったステアリングから響く微かな駆動音に体が震えた。
「ッ……!」
 たまらない。やはりこの車は最高だ。今すぐにでも走り出したい衝動に駆られる。なんとか堪えて、ステアリングを撫でるに留めた。
「どうですか。また乗りませんか」
 クリーツの様子に紳士は柔和な表情を更に緩めて問う。
「乗りたいですね。ぜひとも」
 即答した。だが買うという意思表示とは、まだ微妙に違う。
「正直、この車に俺なんかは相応しくないと思い、悩んでいました」
「無駄に虚勢心が強いよりは、逆に少しくらい悩む方がよろしいかと」
「ありがとうございます。でも……」
 クリーツは一度言葉を切った。考えていたことを整理しようと試みる。
「でも?」
 続く言葉が気になって紳士が促した。
 ――駄目だ。何もかもが無駄だった!!
「考えていたことが全て追いやられてしまった。譲って下さい。相応しいとかそうでないとかどうでもいい。だた純粋に、俺はこの車に乗りたい」
 見てみようと思った時点で、乗る運命だったようだ。
 紳士は満足そうにうなずいた。
「決まりですね」



 紳士は整備が必要ないくらい大事に乗っていたようで、一通りの検査と法律上の書類をそろえて申請するくらいで、車はそれほど時間がかからずクリーツの元に戻ってきた。
 車を目にした友人や同僚達は最初こそ驚いたものの、すぐに納得して笑っていた。「やっぱりそれがないとお前じゃないよな」と言いながら。
「やっぱりクリーツさんにはこういう車ですよねー……」
 そして目の前の少女も同じことを言う。だが、納得してはいるが、少し唖然としているようだ。
「こういう車に乗る男は嫌いですか?」
「いえ! そういうことじゃなくて、私がこういう車に乗せてもらえることが、なんというか、現実離れしすぎて」
 それを聞いてクリーツは意地の悪い笑みを浮かべた。
「私より車ですか。妬けますねぇ」
「えッ!?」
 案の定、少女は大慌て。クリーツは楽しそうに笑った。
「冗談ですよ。すみません。私もこの車の素晴らしさを解っています。当然車の方が何倍も魅力的だ」
「そんなことないですよ! クリーツさんの方が何万倍も素敵ですから!」
「……」
 この少女は時々こうして臆することなくそういうことを言うから困る。あぁ、だがそれもまた彼女の魅力だということも解っている。
「ありがとうございます。では、早速行きましょうか」
「はい、よろしくお願いします!」



END
最後のくだりは完全に蛇足ですが、御愛嬌ってことで。
ちなみに外国メーカーの高級スポーツカーに関して詳しい描写がないのは意図的です。
宮代が車に全く明るくないってのもあるんですが、読者様も各々イメージがあるかと思ったので。
どうぞお好みの車を想像して当てはめて下さいませ。
この後二人は何処へ行くんでしょうね(笑)

……本当はエグゾーストノイズって言葉を使いたかったけど、ILの車って絶対電気系だと思ったので、あえなく断念。
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