黄昏

その他TOP
「おぅ、よく来たの、リルム」
 ジドールの大富豪アウザーの豪邸に来たリルムは、当主直々の出迎えを受けた。
 いつものことである。ラクシュミの一件以来、アウザーはリルムによくしてくれていた。今ではもう一人の祖父と言っても過言ではない。それ以外にも二人は、画家とトレーダーという、商売上のパートナーでもあった。
 初めて会ってから幾年月。祖父は死んだが、こちらはまだ健在である。そういえば、いつぞや何処ぞのトレジャーハンターが言っていた。成金は早死するか長寿か、どちらかしかいないと。ということはアウザーは長寿の方なのだろう。
「前回引き受けた絵画の代金が準備できたが、どうするかの?」
「とりあえず預けとく。まだ使い道を決めてないから」
 リルムの描いた絵は発表とほぼ同時に買い手が付く。そして若い娘には途方もない金額で売れる。
 リルムは手に入れた金のほとんどを慈善事業に費やしていた。きっかけは、かつて幻獣の愛娘であった仲間の、その親友が経営していた孤児院への寄付である。リルムには豪邸や家財道具への興味がない。貯まるばかりの金の使い道に困った果てに考えたことだった。災害復旧に災害孤児救済。リルムは今、それをやっていて良かったと思っている。家族がいない悲しみが、痛いほど解るからだ。
「……しばらく絵は描けないかも」
 出されたお茶を飲みながら、リルムはアウザーに告げた。
「と言うと?」
 特に驚くでもなくアウザーが問う。芸術を生み出すということは、とても繊細な作業である。そういうことはありえるのだ。
「うん……」
 リルムは小さく息をついた。心に靄がかかっている。しかも一時的なものではないと自覚できる。それが邪魔をしてイメージが形にならなず、筆を取る気になれなかった。
 原因は言わずもがな、先日行った瓦礫の山への墓参り。急激に溢れ出した悲しみが未だ尾を引いているのだ。フィガロ王に心の内をぶつけ、胸を借りて泣いたことで、ほとんどは払拭できた。フィガロ王の弟や旧ドマ国の剣士から父の話も聞き、回顧による温かさと寂しさも経験した。だから“会えずに”失った父のことをうだうだ考えることはもうない。
 だがそれでも残る、暗雲のような靄。
「ふぅむ」
 打ち明けられたアウザーはしばし考える仕草を見せていた。無理に絵を書かせるような真似はしない。良い絵を生み出すのに、無理強いは逆効果だと分かっている。
「決着をつけられないでいるのかもしれんのぅ」
「決着?」
「そう、決着。現実を受け止める為に必要な理由が見出せないでいるということじゃ。もしかして、無理矢理自分を納得させようとしてはおらんか?」
「……」
 無理矢理。
「それは、あるかも」
 本当はとても会いたい。死を受け入れたくない。だって遺体を見ていない。生きているかもしれない。……感情はそう訴えている。そして頭では、願いが叶う余地はないと、思っている。頭で感情を押さえ付けているようなものだった。それでは決着を付けたとは言いがたい。
「でも、どうしたら決着を付けられるのか分からないよ」
「父を絵にしてみてはどうかの」
「えっ?」
「どうしたらいいのか、儂もはっきりとした答えは出せんよ。じゃが、お前さんは絵描きじゃろう? まずは絵筆を取ってみるのが一番かと思うての。描いている内に何かを見出せるかもしれん」
「パパの絵を」
 それは、考えてもみなかった。紅茶をすすりながら、しばしリルムは考える。
 『お前さんは絵描き』――あたしは絵描き……
 飲み干したティーカップを置くや否や、リルムはアウザー邸に造ってもらっていたアトリエに向かった。



 最初半日は、真っ白のカンバスをただ見つめていた。いや、カンバスを前に、ぼうっとしていたと言った方が正しい。そうしてとつとつと昔の記憶を思い返していた。
 時折泣いた。父にはもう会えない。悲しみが突然湧き上がり、リルムの心を奔流となって襲った。涙を拭いて、再びカンバスを見つめる。そして気付くと昔のことを思い返している――
 それから木炭を手に取り、とりあえず左下に黒き犬を描いた。背中を向けた、しかし顔だけ振り返っている、そんな姿。
 父の本来の姿は覚えていない。ゆえに、描くならば影の名冠たる暗殺者と決めていた。さて、どのような立ち姿にしようかと考えるが、浮かぶ構図に首を傾げるばかり。愛犬が背中を向けているので、後姿が一番無難だろうかと思った。
 輪郭を書く。そういえば装飾品がいくつかあったはずだと思い出す。一本角を生やした鉢がね。それを留めるための布。ベルトとはためく腰布。……すごい、よく覚えてるわ、あたし。
 そして絵の具入れから一色だけ取り出した。黒。パレットに出し、油で溶く。溶きながら、父のことを考えた。執拗に混ぜ、混ぜられる絵の具のように思考が混ぜられてゆく。旅の、とりとめもないことを思い返し始めた。ふと我に返って、手を止める。
 カンバスに黒を乗せた。塗った。描いた輪郭内をとにかく黒で塗り潰した。絵の具を混ぜていたように、執拗に塗りたくる。
 塗っているうちに、自分が何をしているのかだんだん分からなくなってきた。とにかく塗る。筆を動かす。強迫観念に捕らわれているかのように、ひたすらに黒を重ねる。
 うねる黒に心が引っ張られそうになる。筆の動きが荒くなった。まるで仇でも相手にしているように塗っていた。実際その時は憎しみが篭っていたかもしれない。父だと打ち明けてくれなかったことに対しての憤りだ。
 胃が痛くなった。途中で食事を勧められたが、断った。吐いてしまいそうだった。何故自分はこんな苦しい思いをしてまで父を描こうとしているのだろうか。だが止められない。
 まるで闘っている最中のようだ。そうだ。自分は今、闘っているのだ。でも、誰と? 何と? 思い出と? 父と? 悲しみと?
 なんにしても、勝たねばならない。何故ならあたしは絵描きだからだ。絵描きが自分の書く絵に負けるわけにはいかない。闘ってやる。そして、勝ってやる。
 塗る。黒を塗る。黒、黒。こんなに集中的に黒を使ったのは初めてかもしれない。数ある絵の具の中から、なんのためらいもなく黒を選んだ。青や紫などに見向きもせず。色彩の少ない絵というのは、リルムには珍しい。しかも主たるが暗色というのは、今まで描いたことがない。重い。黒とはこんなに重い色だったのか。どんどん体力と精神力を削られていく。
 だんだん視界がぼやけてきた。泣いていた。涙が止めどなく溢れてくる。だが手は止めなかった。色を塗り続けた。当然だ。自分は絵描きなのだから。
 しかし、もう何をしているのか分からない。だが塗っている。色を塗っている。当然だ。自分は絵描きなのだから。……えかき?
 あ た し は え を か い て る の ?
 ――そして、リルムの意識は途切れた。



 目を覚ますと、アウザーが顔を覗き込んでいた。
「おぉ、目を覚ましたか」
「あたし」
 リルムはベッドの中にいた。いつの間に寝てしまったのかと記憶を手繰る。確か父の絵に黒い色を塗っていたはずだが……
「描き終わった後、倒れてしまったようだの。それほど根を詰めていたのだな。茶を運んできたメイドが驚いておった」
「描き終わった?」
 それこそ、いつの間に、だ。リルムは起き上がった。
「あまり無理をするでないぞ。大丈夫か?」
「う」
 途端に襲いかかる目眩。緩く頭痛もしてる。だがリルムは目眩が治まるのを待ち、ベッドから出た。完成したらしい絵を見たかった。
 寝室の隣にあるアトリエの扉を開く。部屋を、夕焼けの赤い光が照らしていた。
「……」
 その中に、ひっそりと佇んでいた、絵。
 黒い後姿。犬が、リルムが現れたのに気付いて振り返った……ように見えた。
 そして彼等を包む穏やかな夕焼け空――そう、絵の背景は夕焼け空だった。
 最早そこに、リルムを捕らえようとした底無しの闇如き黒を、見出すことはなかった。父も犬も、輪郭しかないというのに。下描きの時点では存在していた犬の顔すら黒く塗り潰されているのだ。まるでその形に穴が空いたかのように、漆黒一色。
 しかし、夕焼けに浮かぶ陰は黒い。おそらく彼が向かう先に夕陽があるのだろう、だから黒き暗殺者の姿も黒いのだと、納得できる。
 そこにあるのは優しく穏やかな日没の風景。しかし、泣きたくなるような切なさを秘めている。それは逃れられない喪失の予感とも言えた。
 絵は、アウザーが言っていた通り完成していた。記憶にはなかったが、リルムは絵を完成させていた。
「正しく“黄昏”だの」
 背後に立ったアウザーが言った。
「よく、完成してるって分かったね」
「長いことあらゆる絵を見ていると、分かるもんじゃ」
「ふぅん……」
 確かに今のリルムから見ても、手を加えるべき箇所は何処にもない。
 それにしても、あれだけ苦しい思いをして生み出した絵が、こんな安直な物だったとは。リルムは小さくため息をついた。“黄昏”なんて、そのまんまじゃないの。
 そんなことを考えながらも、リルムは泣いていた。逃れられない喪失の予感は既に、現実となっている。
 絵に対して、かける言葉は一つしかない。

 さようなら。

 声なくただただ涙を流すリルムの背中を、アウザーはずっとさすっていた。










 その後、リルムは絵を燃やした。
 自分だけの物であって欲しかったのだ。想いも、思い出も。
 他でもない、リルムの父の絵である。その真の価値は娘にしか意味をなさない。
 だからリルムは全く惜しむことなく、火を点けたのだった。





END
久しくゲームしてないので、アウザーの口調は適当です。指摘希望。
一発作品だったはずの大作映画の2企画みたいに、『暁のあと』の二番煎じ具合満々ですね。
完成させるの悩んだんですよ、実は。
でもリルムの絵描き中の描写をお蔵入りさせるのがもったいなくて、結局アップ。
その他TOP

-Powered by HTML DWARF-