ビールの夢

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 ハインリヒはバーで飲んでいた。行きつけというほどではないが、バーテンダーに顔を覚えられている程度には利用している店だ。まぁ、顔を覚えられているのは、日本語が達者な外国人だからというのもあるだろうが。
 BGMはヒット曲のピアノアレンジ。悪くない。黒いカウンターの端の席で、今日も一人静かにグラスをあおる。
 きんきんに冷えたビールにはとうの昔に慣れた。最初は首を捻ったものだが、飲んでみればこれはこれでうまい。夏場は特に。
 それに今はいい時代だ。飲みたい国の飲みたい種類が酒屋に行けば大概手に入るし、いつでも飲みたいように飲める。
 もっとも、自分の舌が正しくその味を認識しているかどうかは謎なのだが……と思った時点で内心苦笑した。
 今飲んでいるビールはまさしくビールだ。種類によって違いはあるものの、記憶にあるビールである。
 それを思うと、ブラックゴーストの科学力の驚異的な高さを改めて痛感する。00ナンバーズの中でも特に生体部品が少ないこの身であるにもかかわらず、舌はちゃんと味を判別するのだから。
 以前、ギルモア博士に訊ねたことがある。何故我々に人間のままの部分を残したのか、と。戦う手駒として使うなら、元の人格も、肉体の循環機能も、必要ないのではないか。現に残してしまったがゆえに、洗脳が間に合わず、BGは我々の反乱を許すことになった。
 だが博士から返ってきた答えはこうだ。目まぐるしく変化する戦況に対応するには、複雑かつ柔軟な思考が必要になる。まだ実験段階だったというのもあるが、概ねそういう理由でやむを得ず人格と思考能力を残したというのだ。
 00ナンバーズ以前の実験過程で、人間が人間である部分・行動を削れば削るほど、その者は急速に心を病ませていった。健全な思考を奪い、狂い、自滅へと追い込まれていった。だから人間としての習慣を、生体機能を、残さなければならなかったのである。
 ハインリヒはそれを聞いて納得した。嫌になるほど理解した。自分も例外ではなかったから。
 フランソワーズと口論になったことを思い出した。それでジェットと喧嘩になり、グレートに仲裁してもらったことも。
 人の体ではないからこそ、せめて平時は人と同じ生活を。フランソワーズの切実な気持ち。そして、それに対して自暴自棄な言動をする自分。根本は同じだ。人間だった頃への憧憬。どちらもサイボーグであるがゆえの不安定な精神からくる歪みである。仲裁しようとしたグレートもそうだ。
 グラスが空になった。瓶から手酌する。口を付けると、少しるぬくなっていた。それはそれで違う味わいがある。
「言ってくれれば注いだのに」
 ――ところで、隣にヒルダがいるのだがどういうことだろう。かけられた言葉は無視して更にグラスをあおる。酔いが見せる幻か、はたまた夢なのか。ビールをグラス一杯で?
 だが彼女が本物ではないのは確かだ。何せこのヒルダ、顔がない。日本のボッペラボウというヤツだ。口もないのに、さっきから妙な色のカクテルを飲んでいる。なんだあの色。淀んだ赤と黄色。不快な色だ。うまいんだろうか?
「ねぇ、私の話聞いてる?」
 問われてみれば、何かずっとしゃべっていたような気もするが、覚えていない。いつから隣に座っていたのかも分からない。気付いたら、いた。いて、何かを話していた、ような気がする。
「もう、アルベルトってば」
 ノッペラボウって、元々はなんだったか。魔物の一種?
 いや、違う。
「パトリック・ラフカディオ・ハーン」
 思いついて口にした。
「それってヤクモ・コイズミのことだったかしら?」
 ヒルダ(?)が首をかしげる。
 そう、小泉八雲。彼の怪談に出てきたはずだ。ムジナがノッペラボウに変身して人を化かす話。
 ということは、今自分は何者かに化かされているということか。そんな馬鹿な。
 何かを語りかけてみようか。しかし、干渉したら最後、良くないことが起きそうな気がしないでもない。
 とりあえずビールだ。
「ぐほッ!?」
 薬品臭い味がした。不味い。不味いっていうか、口に入れるものの味ではない。
「げほッ、ごほッ、ごふッ」
 呼吸器官に入ったらしい。咳が止まらない。
「そんなの飲むからよ」
 ヒルダがくすくす笑う。そんなの? どんなのだ?
 見たら驚いた。グラスには淀んだ赤と黄色の液体が入っていた。咄嗟にヒルダのグラスを見ると、ビールが注がれてある。どうなっている?
「脳に送られる情報って、全て電気信号なのよ」
 意味深な笑みを浮かべながら、唐突にヒルダが語り出した。不思議なものだ。顔がないのに笑っていると分かる。
「五感はもちろん、逆に脳から全身に送られる命令も、みんな、みーんな電気信号なの」
 そう言ってヒルダはハインリヒのグラスを指先でつついた。すると、どうだろう。
「!」
 淀んだ赤と黄色の液体は、すぐさま元のビール色へと変わったのである。いったい、どうなっているのだ。
「お口直しにどうぞ」
「……」
 どうぞと言われても、そう簡単に受け入れられるはずもない。そうして戸惑いながらグラスを見つめていると、ヒルダは再び笑った。
「今度は大丈夫だから。口の中、気持ち悪くない?」
 確かに気持ち悪い。もうしばし悩み、ハインリヒは意を決して一気に飲み干した。
「……ビアテイスト飲料」
 しかめ面で呻いた。健全な飲み物ではあったが、ビールではなかった。
「チェイサーにはおあつらえ向きでしょ」
「俺はチェイサーを必要とする飲み方はしない」
 とはいえ、口の中の薬品臭さがきれいに消えたのはありがたい。
「人間もサイボーグもロボットも、全て電気信号で動き、世界を認識している。貴方が味わったビールやワケの分からない飲み物もそう」
「何が言いたい」
「ねぇ、アルベルト。現実って何処にあるのかしら? 貴方は今、正しく現実を理解していると言い切れる?」
「少なくとも、お前の存在は現実のものじゃないだろうな」
 だがヒルダはやはり意味深な笑みをたたえる。相変わらず顔はないが不愉快なほど分かる。
「果たしてそうかしらね?」
「お前は自分を現実のものと言い張るのか」
「無数の電気信号を判別させるBGの科学力は凄まじいモノがあるけれど、でも、所詮電気信号なのよ。なんて不安定で不確かなモノなのかしら。こんなに簡単に干渉できてしまう」
「干渉、だと」
 ハインリヒはここで初めてヒルダに敵意を向けた。しかしヒルダはふふふ、と悪びれなく笑う。
「記憶だって所詮は電気信号の塊なのよ?」
「ッ……」
 ハインリヒは眉をひそめた。全身の神経が粟立った感じがした。嫌な、予感がする。
「どう? このバー。正確に再現したと思わない?」
 それは、この女がハインリヒの記憶にすら干渉していたと明言したようなものだった。本当かどうかは、未だに分からないが。
 ……分からないが、腹の底からじわじわと焦燥が迫り上がってくるのを止められない。そしてこの感情すら干渉されているかもしれないと思うと、ぞっとした。
「ドイツ、ヒルダ、ブラックゴースト、00ナンバーズ、貴方が現実と思ってきた、あらゆるもの……本当に現実だったのかしら? 誰かが貴方の脳に植え付けた偽物の記憶かもしれないじゃない」
「それが、お前の目的か」
「それって?」
 ハインリヒはヒルダの胸倉を掴んで詰め寄った。
「俺は惑わすのが」
 ただ化かすのではなく。
「ふふっ、どうかしらね」
 ヒルダに危機感を抱いた様子はない。むしろ愉快そうである。
「ねぇ、“ハインリヒ”。どうして私の顔がないか分かる?」
 唐突な問い。ハインリヒは真面目に取り合わなかった。
「知るか」
 だが間もなく彼は、それが一番の致命的な質問だと気付く。
「見つけられなかったのよ」
「何」
「貴方の中に、見つけられなかったの」





   +

「ッ!」
 ハインリヒは慌てて飛び起きた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 嫌な夢だった。ヒルダという女性など最初から存在しなかったとか、自分がヒルダの、愛した女の顔を、忘却の彼方に追いやってしまっていたとか、悪い冗談すぎる。
「……」
 ヒルダの顔を思い浮かべてみる。すぐに思い出せた。だが、あの女はきっとこう問うだろう。それは正しい記憶なのか、と。
 馬鹿馬鹿しい。ヒルダはヒルダだ。間違いなく。
「はー……」
 ハインリヒは深々とため息をついて、顔を両手で覆った。そんなふうにいちいち自分に言い聞かせなければ不安になることにげんなりした。
「どうしたの、ため息なんてついて。それになんだか悪い夢でも見てたみたいね」
 フランソワーズが書棚の整理をしながら言う。
「あぁ……夢でノッペラボウに化かされてな……」
 それを聞いてフランソワ―スは噴き出した。
「ノッペラボウって」
「なんだよ」
「ずいぶんメルヘンな悪夢だったのねと思って」
「それが腹立つことに、かなりタチの悪いノッペラボウだったんだよ」
 ヒルダを装い、電気信号でハインリヒを惑わそうとしたのだから。
「そうだったの。ノッペラボウって顔がない日本の魔物よね」
「まぁ、そうだな」
「こんな感じ? ……あら」
 こんな感じ? と振り返ったフランソワーズはノッペラボウだった。しかしハインリヒは既に右手の銃口を向けていた。
「定石だろ」
 女ノッペラボウから逃げ出した男は、屋台で再び男ノッペラボウに化かされる。
「思いの外、冷静だったわね」
「で、結局お前は俺をどうしたいんだ」
「ふふっ、ほんの仕返しよ。004」





   +

 目を開けると島村ジョーに、いや、009に覗き込まれていた。
「004! 良かった!」
「009。皆」
 辺りを見回すと、ベッドに寝ている004を他の仲間達も心配そうな顔で見下ろしていた。
「俺は……ん?」
 体がうまく動かない。関節の反応が悪い。
「マザーコンピューターが爆発した時に発生した強い電磁波にやられたんだ。覚えてる?」
「あぁ、そういえば」
 悪巧みを働くNBGの派生組織が作り上げたスーパーコンピューターを破壊しに来たら、そのスパコンが爆発する際に、道連れとばかりに強烈な磁界を発生させたのである。逃げ遅れた003を咄嗟に部屋の外へ放り出したのは良かったが、自分が間に合わなくなったのでやむなく内側から扉を封鎖して放射を防いだのだった。この体の不調はダイレクトに磁界の影響を受けたからなのだろう。ジャミングのようなものだ。
 だからあんな夢を見たのか。いや、“夢”では少々御幣があるだろう。004はまさに“ほんの仕返し”を受けたのだ、スーパーコンピューターから。
「……」
 ほんの? 004は内心で笑い飛ばした。心にくすぶるこの不安をほんの少しの仕返しで片付けられるものか。
 何せ今この瞬間も、現実を疑っているのだから。
「でも目を覚ましてくれて良かったよ。ギルモア博士が言うには、時間が経てば元通りに動けるようになるそうだから」
 安心させるように009が言う。
「そうか」
 心の内を悟らせぬように、努めて平静に答えた。今のところ何処にもおかしな様子はないようなので、これが現実だと信じるしかなかった。
 何が真実かなど、疑い出したらキリがない。





   +

 ハインリヒはバーで飲んでいた。行きつけというほどではないが、バーテンダーに顔を覚えられている程度には利用している店だ。まぁ、顔を覚えられているのは、日本語が達者な外国人だからというのもあるだろうが。
 BGMはヒット曲のピアノアレンジ。悪くない。黒いカウンターの端の席で、今日も一人静かにグラスをあおる。
 そこへ一人の女がやってきて、他の席が空いているにもかかわらず、ハインリヒの隣に座った。
 ちらりと一瞥する。知らない女だった。彼女はハインリヒの知らないカクテルをバーテンダーに注文した。
 やがて出てきたのは、鮮やかな赤と黄色による二層の、きれいなカクテル。ハインリヒは思わず目を見張った。
 女は意味深な笑みをハインリヒに向けた。

「そのビールはちゃんと美味しい?」



END
以前発行した004本「ビールの夢」より。いつ作ったか本に記載してなかったよ……
最初はテキトーにウイスキーのロックでも飲ませようと考えてたんですが、ドイツ人ならビールだろ、ってことでビールになりました。
で、ビールを題材にするなら、ドイツビール飲んどかなきゃと思い至ってわざわざ買いましたよ。ビール飲めなかったのに
あ、当時は飲めなかったんです。今は飲めるようになりました。黒ビール以外orz

ちなみにお世話になったのはポーラナーのヘフェ・ヴァイスとサルバトール、そしてドイツbPシェアを誇るらしいヴァルシュタイナーです。
ヘフェ・ヴァイスはほのかにフルーティーな甘みを感じる飲みやすいヴァイスビアでした。
サルバトールは本格的にビールを楽しめる人向けって感じでしょうか。苦いorz
ヴァルシュタイナーは日本人の口に馴染みやすい味だと思います。
皆様も試しに如何ですか?

ところでドイツビールといえばオクトーバー・フェストですよ。ドイツのビール祭り。
小説を考える片手間に、時期が近付いてくるとそわそわし始めるハインリヒとか、フェストでジョッキ片手に大盛り上がりする00ナンバーズとか妄想して楽しんでました。
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